0802

日記。

少しの時間だけ日記を書くのが毎日の喜びになっているように思える。

最近は偉さの基準は生産 >>> 消費であるという考えのもと行動している。

消費が悪いわけではない。ひたすら消費して生きているし消費しなければ生きていけない。

でも今は何でも消費される。

昨日の不祥事はもう誰も覚えていないし、りゅうちぇるが自殺しても3日後には忘れられてる。

毎日新しい情報が濁流の様に流れ込んでくる。

だから消費できないくらい情報が生産されているから生産すること自体が無意味に思えて仕方ないのはしょうがない。

それでも何か制作していたい。

自分の中の喜びは生産らしい。

消費ばかりしても虚しいだけだ。

結局生産する喜びに勝るものはないのだと思った。

消費とは何か勉強することは消費、勉強したものをアウトプットするのは生産。

問題を解くのは消費。文章を書くのは生産。

正確に理解しているのかを確認するのは消費。

まぁ生産するのも難しくてそれが社会にとって利益にならなければゴミになる。

なので社会のためになるもの、もっとミクロに考えれば自分のためになるものを作成する必要がある。

自分のためになるものは自分が好きなものだったり自分が不便だと思う感性が必要になる。

不便さは割と感じ取りやすいが自分が好きだと想像することは99.9999%以上の人間ができていない。

また結局好きなことをちゃんと表現する技術力が無いのでゴミが出来上がっていくってこと。

だから不便さの解消ツールがたくさん世の中にあるわけだが、それらは一時的な幸せにすぎないしもっとも言えば不幸にならないためのツールである。

長く続く幸せとは自分が好きなものが何かを理解し、それらは準安定状態であることを理解する。

つまりは時間が流れているという至極当たり前のことを意識することである。

その上で自分が好きだと想像するものを頑張って生産することができればそれはこの上ない幸せが続いていくのではないだろうかと思う。

確かに自分が好きだと思うものを作り続けていきたい。

そのためには自分が何が好きなのかを理解していく必要がある。

美味しいものを食べるのはより美味しいものを作るためだ。

料理批評家で上手に料理を作れないのであれば役にたたん。

極論食べログやアマゾンの口コミとかも役に立たないのだ。

だって他人の意見なのだから。

結局自分が何者で何が好きで何を生産し続けていきたいかをひたすら考え抜くことに人生の意味があるのではないかと考えている。